Monthly Archives: 4月 2010

ヘレンケラーのようなスタートです

28 4月 2010

私が会社を辞めて店を始めると聞いた周囲の人たちの反応は、ほぼ2つに分かれました。
「うらやましい」といった肯定的な声と、「大丈夫なの」と心配する声でした。
前者は、私が酒好きでいつも飲んだくれているのを知っているか、自分も何か商売を
やりたいと考えている人たち で、後者は、商売の厳しさを知っているプロの人たちです。

出版業界は長期的な不況に苦しんでいますが、会社にしがみついていれば少なくとも定年までは
世間よりも高い給与をもらい続けることは可能でしょう。そうした経済的な後ろ盾を捨てて、
50歳になってからわざわざ『水商売」に身を投じるのは、飲食業の実情を知る人たちにとって
軽卒そのものの行動に見えたのかもしれません。

出版社では、主に経営や経済のテーマを扱う雑誌を作っていました。取材記者として「競争」とか
「効率化」とか「グローバル化」などをキーワードに記事を書いてきましたが、 ここ5〜6年ほど
心の中にもやもやしたものを抱え続け、それがリーマンショックなどを機に大きく膨らむのを
感じていました。一言でいえば「経済は日本人を本当に幸せにしたのか」という疑問です。

まあそういう疑問を感じる時点で、大した記者ではなかったことを告白するようなものですが、
ともかく、そういう経済効率優先の世界とは全く違った分野に挑戦したくなったのです。
押上という土地を選んだのも、店のすぐ近くで大学の先輩が古い長屋を改装したカフェを
経営していることもありますが、長い間開発から取り残された“しみったれた”街の雰囲気に、
妙な安らぎを感じたからです。

そうした何十年か時計の針を戻したような街で始める店は、業種が生産性の低い飲食業、
扱う商品が衰退産業の日本酒、立地は 下町のシャッター商店街という、三重苦の環境の中に
あります。まさにヘレンケラーの苦労そのものを克服しながら店の切り盛りをしていく
覚悟です。 経済的には歯牙にもかからないような環境の中から、本当の人間の幸せを
みつけられないか。それが、店を始めながら迎える老後の楽しみなのです。


店名の「酔香」は京都にルーツがあります

23 4月 2010

お店を開くことを考えた時に、店名は最初から頭の中にありました。それは、私が学生時代を
過ごした街、京都にあった名居酒屋を目標にしたいと思っていたからです。

京都市の西郊 、酒造の神様として知られる松尾大社のすぐ近くにその店はありました。近くで
酒販店を営むご主人が夜はカウンターの中に入り、軽妙な語り口で酒の魅力を伝えるとともに、
出汁の味をしっかりと利かせた絶妙な酒肴を供する店でした。酒専用の大型冷蔵庫が温度帯別に
3台も用意され、お酒ごとの飲み頃にぴったりと合わせて勧めてくれました。

しかも、ただお酒を売るだけではなく、蔵元に入り込んで酒造りにも参画していました。
滋賀県のある蔵で高齢の杜氏が引退し、若い兄弟だけで酒造りを強いられる状況になると、
その兄弟と一緒に泊まり込んで仕込みを手伝うなど、関西の若い蔵元にとって「兄貴」のような
存在になっていました。客である我々は、マスターがそうした蔵から一升瓶に汲んできたばかりの
搾りたてにありつくのが楽しみで店に通い詰めていました。

東京から関西出張や京都旅行の度にその店を訪ね、時間ギリギリまで飲み続けたために、
新幹線の最終便に乗り遅れそうになることもしばしばでした。場所柄、酒の神である松尾様に
祝福されたような店だったといえるでしょう。私が日本一の居酒屋だと思っていたその店
「酔香」は、事情があって5年ほど前に閉店してしまいました。

今回、自分が店を開くうえで、最終的にはこの店に一歩でも近づきたいという思いが強く、
京都まで行ってマスターに「酔香」の名前を使わせて欲しいと頼みました。幸いにも
マスターには快諾していただきましたが、まだまだ草庵のような粗末な店なので、
その上に「酒庵」を付けて店名とすることにしました。

これから少しづつ努力し、日本一は無理でも、少なくともマスターに「名前を返せ」と
言われないような店になるよう頑張っていきたいと思っています。

酒庵「酔香」2010年5月21日のオープン予定です

20 4月 2010

お店の開業準備のため墨田区に引っ越してきてから、
時々隅田川沿いの散策コースを走っています。
立ち仕事に耐え得る体力作りのためという目的はもちろんですが、
これからの後半生を過ごす
街の魅力を1つでも多くみつけたいと願ってのことです。

身を切るような冷たい風もいつしか優しく頬をなぜるようになり、
一面の満開の桜が頭上を覆い尽くす中を走り抜ける心地良さに、
身も心も躍る気持ちを味わいました。その桜も散った今は、
一斉に芽吹いた木々が濃淡の違う緑の重なりを織りなしています。

昨年末で出版社を退職し、4カ月ほどの日々を経る間に、
自然は着実に季節の装いを変えました。

もう背広を着る機会も少なくなるだろうと、100本近いネクタイを捨てて
サラリーマン生活から訣別し、ひたすら店の開業に向けて準備を進めてきました。
会社という拠り所を失った不安に満ちた日々を支えてくれたのは、
決して後戻りすることなく時を刻む自然の営みであったような気がします。

そして今、やっと開店のめどが見えてきました。
昭和30年代に建てられた木造建築は思った以上に傷みが進んでいて、
耐震補強を含めた見えない部分の手入れに思わぬ負担を強いられました。
また、内装は古い酒屋さんの雰囲気をできるだけ残すことにこだわり、
店内にぐるりと巡らされた陳列棚をいったん外して再び組み直すという
パズルのような作業にも手間どりました。
しかし、そうした苦労も隅田川のゆったりとした流れを見ているうちに、
大したことではないぞと思えるようになったことが
この街に住み始めた最大のメリットでした。

男50歳の挑戦などと力むことなく、自分がこの店を通じてお客様に伝えたいと思ったことを
素直に表現していけばいい。そうした自然体で臨むことが、
皆様にとっても居心地の良い店を作り上げる第一歩ではないか。
5月21日の開店日を控えて、今そういうことを思っています。

開店までの残り少ない日々、自らの気持ちを確認するためにも
このブログを通じて皆様に開店に至る思いや経緯を少しずつお伝えしていければ
と考えています。よろしくお付き合いください。