舌が錆び付くその前に…

26 9月 2012

昨日の定休日、気鋭の酒販店が開いた秋酒の商談会に参加してきました。そこで会ったのが銀座で
「佳肴 みを木」を営む女将の渡辺愛ちゃん。彼女は広告関係の仕事を辞め、都内の銘酒居酒屋数店で
修業を積んだ後、念願の自分のお店を花の銀座で開いた苦労人。といっても、心から日本酒を愛し、
時にはその愛に溺れるかのように男勝りの飲みっぷりを見せる「男前女子」でもあります。
その酒歴はもちろん、マスコミ業界からの転身組という共通点もあり、私の戦友のような存在です。

その愛ちゃんに、昨日はお店のスタッフ2人も同行していました。1人は20代の元気女子、
もう1人は都内のホテルの日本酒バーから引き抜いた(?)30代の男性です。ちなみに失礼ながら
年齢を明かすと愛ちゃんは40代です。3人でワイワイと様々なお酒を試飲している側で感想を聞いて
いると、けっこう好みが分かれている様子。愛ちゃんいわく「そうなのよ。年齢によってお酒の
評価がバラバラなの。えっ、こんなのというお酒に20代の子がはまったりね。もしかしたら
私たちの舌はもう古いのかもしれないわね」。

たしかに我々の時代と違って、今はお酒を飲み始めるその時から歴史上最高のクオリティーと
言われる日本酒がキラ星のように輝いている時代。美術品の鑑賞眼も舌の味覚もホンモノに
沢山触れることで磨かれると言われますが、そういう意味では日本酒の美味しさに目覚めるのに
今ほどいい条件が揃っている時代はないでしょう。我々のように変なトラウマや偏見がない分、
若い人たちの日本酒観や飲み方に教えられることもしばしばです。

思えば、私が本当に美味しい日本酒に出合うまでには随分と遠回りしました。名にしおう
飲ん兵衛大国の秋田県に生まれましたから、小さい頃から身近に日本酒は溢れていました。
宴会の片付けを手伝うふりをして、残ったお酒をこっそり舐めてみたこともありましたが、
何やらべたべたと甘ったるい味がして「こんなのどこが美味しいんだろう」と思ったものです。
盗み飲みが過ぎていい調子になり、座敷の障子を破って回って大目玉を食らったことはご愛嬌
ということで…。

貧乏学生の頃は、徳利1本100円などという得体の知れない安酒を飲んで 猛烈な二日酔いに何度も
頭を抱えましたし、社会人になって最初の頃は、会社近くのスナックに安いウイスキーのボトルを
入れて毎日のようにツケで飲んでいました(給料日やボーナスの支給日にはスナックのママの
取り立てで、給料袋が半分以下にやせてしまってましたが、これもご愛嬌ということで…)。
ちなみにこの会社で最初に仕えた編集長の口癖が「若いうちから貯金するヤツはろくな編集者
になれない」というもので、私はその教えを忠実に守っていたわけです。しかし、その後にこの
編集長が数千万円の借金を抱えて自殺したのを機に、ツケで飲むのは一切止めました。

少し話が脱線してしまいましたが、私が本当に旨い日本酒に出合ったのは20代も後半になって
のこと、今はなき池袋の小さな居酒屋に通い始めてからです。カメラマンのマスターが営むこの店は
料理もお酒も全ておまかせ。好みや酔い具合に合わせてマスターが注いでくれるお酒は、それまで
聞いたこともない地方の地酒ばかりでした。米の旨味がトロトロに溶け込んだもの、フレッシュな
果実味を感じさせるもの、華やかな香りがプーンと立ち上がるもの…。そうした未知の味わいに
はまり、ほぼ毎日のっように通い詰めてました。同じようにこの店で日本酒に開眼した常連客が
たくさんいて、蜜にたかる蜂のような連中が連日連夜集っていたものです。

この店の常連と一緒に蔵巡りをしたり、近場の酒蔵で蔵仕事を手伝ったりしながら、酒造りの
プロセスや苦労を知ってますます日本酒にのめり込んでいきました。その後、店名の由来となった
京都の「酔香」で、蔵で汲んだばかりの無濾過生原酒の鮮烈な旨さに出合い、当時ポツポツと
出来始めていた日本酒バーで燗酒や熟成酒の魅力にも目覚めました。

こうして自分の酒歴を振り返ってみると、日本酒との出合いの場を与えてくれた飲食店の存在が
いかに大きかったかがわかります。自らの舌のフィルターを通しながらも、蔵元や酒販店から発信
される情報を的確にお客様に伝え、その魅力に気付いていただく。酒屋万流であると同時に飲み手も
万流。いびつなこだわりや偏見を捨て虚心坦懐でお酒を提供できるか。加齢に伴って舌が錆びて
いくとしたら、より若い舌の声に耳を傾けていこうと思っています。

スカイツリー効果はありますか?

4 9月 2012

「東京スカイツリーが出来て、お客さんが増えましたか?」。最近、多くのお客様に尋ねられる
質問です。 正直なところ、あまり変化は見られません。特に平日の夜は、駅から遠い当店まで足を
延ばす方はほとんどいません。辛うじて土日の昼酒営業の時は「今、スカイツリーにいるんです
けど…」という電話がかかってきて、地方から観光目的で上京された方がちらほら来られるように
なりました。

スカイツリー周辺のお店の方に聞いても、「むしろツリー開業前の方が賑わってました」という
声が聞かれます。東京スカイツリータウンには約300ものショップが入っていて、水族館や
プラネタリウムなども揃っているとなれば、1日中その中で過ごす人たちが大半なわけです。
ツリー建築中こそ多くの見物客で周囲のお店がごったがえしていましたが、今はお土産屋さん
などが閉店に追い込まれています。スカイツリーを起爆剤にして、周囲の下町観光も一緒に
盛り上げていこうとする地元の思惑は、今のところ空振り気味のようです。

話は変わりますが、私が京都で学生時代を過ごしていた頃、バスガイドのアルバイトをしていました。
主に観光バスで移動する修学旅行生を引き連れて 、京都や奈良を中心とした寺社仏閣を巡りました。
約3カ月にわたる研修を受けてからバスに乗りますので、「清水寺の舞台の高さ」や『東寺の五重塔の
高さ』、「金閣寺に貼られている金箔の枚数」に至るまで、あらゆる観光名所はひととおり説明できる
だけの知識を持っていました。

春秋の観光シーズンになると、参道に土産物店がズラリと並ぶ清水坂界隈には観光客が殺到し、終日、
原宿の竹下通り並みの混雑ぶりでした。その中を多い時は十数台にも及ぶ修学旅行生のキャラバンを
引き連れて坂道を上っていくのは大変なことでしたが、一方でこれだけの観光客を全国から集められる
京都の底力に心底感服したのを覚えています。

しかし、時代は変わって京都は修学旅行の聖地ではなくなりました。修学旅行の行き先は海外が
当たり前になり、たまに京都が選ばれても観光バスでゾロゾロと集団行動するのではなく、グループ
ごとにタクシーで移動するという形態に変わりました。今や京都観光を支えているのは中高年の
女性グループだと聞きます。こうした時代の波を受け、私が所属していた学生ガイドの事務所も
最近ひっそりと閉鎖しました。

東京スカイツリーは、かつて私を驚嘆させた最盛期の京都の主要観光地を凌ぐ入場者数が見込まれて
います。それはそれで素晴しいことですが、未来永劫そうした繁栄が続く保証はありません。事実、
東京には次々と新しい観光スポットが登場し、その度にかつて賑わった施設は時代遅れとばかりに
記憶から忘れ去られていきます。「世界一」のキラーコンテンツを擁する東京スカイツリーも
決して例外ではありません。

それだけに、立地に頼るのではなく、常に店の魅力を磨きながら「個店力」を高めることこそが
大切だと気を引き締めています。厳しい残暑が続く中にも確実に秋の気配が強まってきました。
秋の「ひやおろし」を嚆矢に、ますます日本酒が美味しい季節の到来です。スカイツリーの雑踏に
疲れたら、しみじみと旨酒を味わいに来てください。そうしたゆったりとした時間を持って
いただけることこそが、スカイツリーには無い魅力を輝かせる道だと思っています。

幻の日本酒雑誌がありました

10 7月 2012

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、三重県の伊賀上野で「三重錦」を醸す中井昌平さんが来店されました。
元プロボクサーで、廃業寸前だった蔵の酒造りという新しいリングにのぼって活躍を続けています。
一見寡黙なファイターに見える中井さんですが、話し出したら止まらない性格。
本音トーク炸裂で、周りのお客さんを巻き込んで大盛り上がりの夜となりました。

その時私は、初めて中井さんに会うきっかけとなった1冊の雑誌を思い出していました。
『日経ビジネス+(プラス)』という男性誌です。ご存知ないのは当たり前、産声を上げる前の
試作版で終わった雑誌だからです。6年ほど前のこと、そのパイロット版の編集を任された私は、
企画や取材執筆をほぼ1人でこなしました。言い方を代えれば、ほぼ100%自分の趣味で固めた
雑誌でした(笑)。

メインの特集記事は、やっぱりねえの「日本酒の逆襲ー日本人が知らない日本酒の魅力と流儀」。
「吟醸酒街道をゆく」と題して山形県の庄内地方の酒蔵を訪ねたり、「日本酒をこよなく愛する
外国人」として表紙にも登場してもらったジョン・ゴントナーさんをインタビューしたり、
全国各地の日本酒バーを紹介したりしました。もう1つの企画が「元プロボクサーが醸す酒」。
登場者は和歌山県で「雑賀」を醸す雑賀俊光さんと、そして「三重錦」の中井さんだったのです。

この時の取材では、カメラマンも元プロボクサーを起用し、さながらボクサー同士の真剣勝負の
ような臨場感溢れる写真を撮ってもらったものです。 残念ながらその記事は多くの人の目に
触れることは叶いませんでしたが、それ以来、中井さんとは親しくさせてもらっています。

ちなみに、その他の記事は「太宰治、壇一雄、坂口安吾…“弱カッコいい”男の生き方」
「ニッポンオタク列伝ー南方熊楠」「東京近代建築探偵団」「中高年から始めるジーンズと
帽子の着こなしテクニック」「大人のための知的ダイエット」「孤高伝説 ボブ・ディラン」
などなど。そうです。定年退職などで経済誌を読まなくなった中高年男性に向けた生活情報誌を
目指したのでした。

結果的には、思ったような広告収入が見込めないなどの理由で創刊には至りませんでしたが、
その時の悔しい思いが日本酒の店を始める遠因になっているのかもしれません。6年前に比べ、
日本酒を巡る環境は少しずつ変わりました。相変わらず廃業に追い込まれる蔵が絶えない一方、
代替わりで若い蔵元が新たなブランドを立ち上げ復活するケースも増えてきました。47都道府県で
唯一の空白地帯だった鹿児島県でも日本酒の醸造が始まり、海外への日本酒輸出も順調に伸びて
います。まさにかつての特集テーマ「日本酒の逆襲」が始まっているのです。

8月初め、我が故郷の秋田県酒造組合から講演の依頼がありました。県内の蔵元さんや杜氏さん
たちが集まった勉強会だそうで、店は臨時休業して出かけてきます。雑誌記者の経験と日本酒バー
の経営を通して感じたことをお話ししてこようと思います。その中でも「日本酒の逆襲」をテーマに
したいものです。かつての日本酒王国、秋田県の酒蔵復活を祈りながらー。

酔香、3年目への思い

29 5月 2012

酒庵酔香は、5月21日をもって開店2周年を迎えました。翌22日は東京スカイツリーのグランド
オープン。下町の静かな住宅街だった押上近辺にも人の波が押し寄せ、俄にざわめきを増して
きました。 当店の2周年記念と東京スカイツリーの開業記念に行った「角打スタンプラリー」は、
晴天にも恵まれ多くの方々にご参加いただきました。時間帯によってはお入りいただけなかった
方もいらっしゃったようで、お詫び申し上げるとともに遠くからもわざわざ足を運んでいただいた
方々に心より御礼申し上げます。

昨年の1周年記念は当店単独で角打スタイルのイベントを実施しましたが、今回「角打ワイン利三郎」
と「Fujisan Deli」の2店を巻き込んでスタンプラリーを企画したのには、ある思いがあります。
以前のブログにも書きましたが、開店当初は経営的に厳しいスタートになることを覚悟していました。
押上という世間的にはマイナーな駅からさらに10分近く歩いた先の、うらぶれたシャッター商店街の
中の立地で、日本酒というこれまたマイナーなドリンクを専門に扱う店…。まさに3重苦を克服せず
して生き残りはないと悲壮な思いを抱えていたのです。

実際には、わざわざ押上くんだりまで足を運んでいただく“奇特な”お客様のおかげで、何とか2年の
節目をクリアすることができました。その間、商売的には不毛の地だった押上にもポツポツと店が
出来始め、立地環境を共有するそれぞれの店が同志的な連帯感を持つようになってきたのです。
それは旧来からある商店街組合的なつながりではなく、もっと自由で軽やかな仲間意識とでも
いうべきものです。

先日、東京スカイツリーの足下にできた商業施設「東京ソラマチ」を見て来ました。以前、経済誌の
記者をやっていた頃、長く流通業界を担当していて多くの商業施設のオープンに立ち会ってきました。
その経験からまず、狭い敷地という制約の中で300店以上もの店舗をびっしりと詰め込んだパズルを
完成させた担当者の苦労に頭が下がる思いでした。まさに下町にふさわしい「長屋商店街」だなと
苦笑したものです。

その長屋に1日20万人を超える人々が押し寄せる様子は圧巻でした。スカイツリーという圧倒的な
キラーコンテンツを抱える商店街だけに、しばらくは混雑が続くでしょう。一方、スカイツリーの
開業前は賑わっていた近辺の店にあまり人の流れはありませんでした。いくら下町散策も面白いぞ
と言われても、出来立てホヤホヤでキラキラな魅力を放つ店を見せられれば、誰しもそちらを選んで
しまうのは道理のこと。「スカイツリーが出来れば周辺の店も賑わう」という安易な期待は抱かない
方が賢明でしょう。

とすれば、今ある店はお客様がわざわざ足を延ばしたくなる魅力を高めていかなければなりません。
圧倒的な個店力がある店なら単独でお客を呼べるでしょうが、そうでなければ地域ぐるみで誘引力を
磨いていく必要があります。その第一歩が今回のイベントだったのです。ほんのささいな試みだけに
まだまだパワー不足ですが、点と点が結ばれて線になり、さらに線が輻輳して面になっていけば、
新しい商業施設にも負けないパワーが発揮できるようになると信じています。

一方、1人でも多くのお客様が当店にお入りいただけるよう、イスを入れ替えて客席を2席だけ
増やしました。新しいイスは以前より少々座り心地が落ちますがご容赦ください。3年目を迎え、
より遊びに来たくなる街、より愛される店をを目指して頑張りますので、よろしくご愛顧のほど
お願いいたします。

5月の営業のお知らせ

19 4月 2012

5月の営業のお知らせ

☆GW期間中は暦どおりの営業となります。5月12日(土)は15:00〜18:00まで
貸し切り営業のため、通常営業は18:00以降となります。

☆5月19日(土)、20日(日)は開店2周年イベントのため、ご予約はお受けいたしません。
イベントの内容は近日中に当ホームページでお知らせいたします。

☆5月の店休日は、1日(火)、8日(火)、14日(第二月)、15日(火)、22日(火)、
28日(第四月)、29日(火)となります。

サラリーマン時代に苦痛だった3つのこと

26 3月 2012

サラリーマン時代、苦手というか嫌だなと思うことが3つありました。

1つは長い会議です。結論も出ずに延々と何時間も続く会議に参加していると、頭が朦朧として
思考力がゼロになってしまいます。1日中会議が続く日などは、朝から気が重いだけでなく、
仕事帰りにお酒を飲みに行っても、ちっとも酔えないなんてことがよくありました。ですから
自分が招集する会議は極力1時間以内、長くても1時間半くらいで終わるようにしていました。

2つめは、朝といわず夜といわず呼び出し音が鳴る携帯電話です。特に週刊誌のデスクをしている
時には、取材に出かけた記者からの報告、原稿に行き詰まった新人記者からの泣き言めいた相談、
企業の広報担当者からの売り込みやクレーム、編集長からの無理難題などなど…。お酒を飲んで
いても、就寝中でも、休日でもお構いなし。気が休まる暇がありませんでした。

3つめは、人事評価です。特に成果主義的な人事評価システムが導入されてからは、部下を評価
することだけでなく、自分が評価されることも苦手でした。年に2回、上司との面談を前に自分の
仕事の成果を書き出すのですが、大したことがない実績でも針小棒大に“作文”することが苦痛で
なりませんでした。逆に他人には評価されなくても自分では十分満足している仕事もあり、
最終的にはそちらのほうに重きを置きながら日々を過ごしていました。

会社を辞めたことでこれら3つの苦痛からは解放され、精神的にはすこぶる楽になりました。
とはいえ、3つめの「評価」に関してはお客様から店を評価されるという形で残っています。
ネット上の口コミサイトでの評価はほとんど見ることもありませんが、親切にも「点数が
トップ5000に入ったよ」などと教えてくれる方もいます。

このサイトに関しては“やらせ”が問題になったり、運営者側が「お客が自由に書き込むサイト
だから」と削除等には応じない一方で、「お金を出せばもっとお店の情報が載せられます」
といった営業電話がかかってくるのを経験してからはほとんど信用していません。しかし、
こうした評価が一人歩きして、これまでとは違ったお客様の来店が増えてきたように思います。

例えば、お酒を全く飲めない方が来られるケースです。お聞きすると「話題の店だから」とか
「スカイツリー周辺で点数が高い店だから」といった理由で、とりあえず確かめに来られている
ようです。8席しかない小さな店がそうしたお客様で占められ、本来の日本酒好きなお客様が
入れないという事態が起こるようになりました。同様の状況に悩んだ知り合いの店は、悪循環を
断ち切るために移転までしたほどです。

こんな不便な場所までわざわざ足を運んでくださるお客様を分け隔てする気持ちはありませんが、
多くの人に日本酒の美味しさを伝えるという店に込めた思いは大事にしたいと思っています。
正直に申し上げると、お酒を飲める方だけにご来店していただきたい。そのうえでお客様からの
どのような評価も甘んじて受けたいと思います。そして、サラリーマン時代のように他人からの
評価はさておき、自分が本当に満足できる仕事を大切に積み重ねていくつもりです。

お客様からの「1杯どうぞ」はお受けしません

7 2月 2012

先日、このブログで満寿一酒造の増井浩二専務への追悼文を書いたところ、それを見てわざわざ店を
訪ねて下さった方がいました。神田で焼き鳥店を営んでいる方で、店で出す日本酒は「満寿一」と
同じ蔵元が九州の酒販店向けに造る「幡随院長兵衛」の2種類のみとか。東京に満寿一のみで商売
している店があることに驚くとともに、亡くなった増井さんとの縁の深さや思いの強さを感じました。

今年の元旦に増井さんから届いたという年賀状を見せてもらいました。自らの病気のことには一言も
触れず、最後に「呉々もお身体にお気をつけ下さい」と逆に相手の健康を気遣う優しさに涙が出そうに
なりました。わざわざご持参いただいた「幡随院長兵衛」を居合わせたお客様と一緒に味わいながら、
日本酒との一期一会の出合いを大切にしていく決意を新たにしました。

店には時折、古い友人知人などの懐かしい顔が訪れます。数十年ぶりに会って近況を聞くと、結構な
割合で大きな病気をしたことを告白されます。亡くなった同級生のことに話が及ぶこともあります。
お互いそういう年齢になったんだと慨嘆するのが常ですが、それだけに健康こそが最大の財産である
ことを痛感させられます。

店を始める前、妻と決めたルールに「営業中にお客から酒を勧められてもお断りする」というものが
あります。自分がかつて通っていた店には店主がお客と一緒になって酒を酌み交わし、営業後も別の
店に流れて深夜まで飲み直すのを常にしているところがありました。その店主は若くして体を壊し、
店もたたんでしまいました。私のように50歳を過ぎた人間が1日でも長く店を続けるためには、
誘惑に負けずに自らを律するしかないと決意したのです。「1杯いかがですか」とおっしゃる
お客様からはお気持ちだけいただくようにしていますので、どうかご容赦ください。

また、明らかに飲み過ぎだと思われるお客様には新たなお酒の提供をストップすることもあります。
お客様にも美味しく適量のお酒を飲んで健康でいていただきたいと思うからです。店内を禁煙にして
いるのも、お酒の香りや味わいを邪魔されないようにするだけでなく、できれば喫煙者にタバコを
止めてもらいたいと積極的に願うからです。

私の父は毎日1升以上の日本酒を飲む酒豪でしたが、タバコも1日数箱を空けるチェーンスモーカー
でした。生涯でお酒の影響と思われる病気はほとんどしませんでしたが、最期は肺がんを患って
亡くなりました。雑誌記者時代、新聞に「飲食店の禁煙化ノウハウ」という記事を書いたことが
あります。そこで取材した“禁煙バー”のママは、食道がんにかかったことがきっかけで店を禁煙化
したと語っていました。喫煙が付き物のバーを禁煙化するのは相当の勇気がいったそうですが、
今ではうまくタバコを止められないお客の良き相談役になっています。

酒やタバコは毒にもクスリにもなります。いずれも美味しく味わうには「健康」という器が必要
です。皆様にもその器を大事にしていただき、長く人生を楽しんでいただきたい。そのために
何か少しでもお手伝いできる店になれればと思っています。

増井浩二さんと「満寿一」よ永遠に…

23 1月 2012

新年早々、悲しい訃報が届きました。静岡市にある満寿一酒造の専務、増井浩二さんが病魔との闘いに敗れ息を引き取ったと、
別の蔵元さんからの連絡で知りました。

「満寿一」は私にとって特別なお酒です。
日本酒の魅力に気付き始めた頃、ある居酒屋でこのお酒を口にし、
雑味のない限りなく優しい味わいに感動したのが最初の出合いでした。
その日以来、誕生日など特別な時に「満寿一 純米大吟醸」を開けるのが決まりになったのです。
静岡酵母を使った日本酒で最高峰に位置するそれは、バナナ様の含み香と和三盆のような上品な甘さをまとい、すいすいと飲み続けるうちにあっという間に1本が空になる“魔性のお酒”でした。

東京ではほとんどみかけないのでわざわざ静岡の酒販店から取り寄せていましたが、どうしても蔵が見たくなり、10年ほど前に無理を言って蔵を訪ねました。
増井さんは人懐っこい笑顔で 出迎えてくださり、造りの最中にもかかわらず丁寧に蔵内を案内して
くださいました。かつては普通酒を中心に数千石規模を造っていた大きな蔵でしたが、
訪問時に使っていたのはほんの一部。「普通酒をやめ、吟醸酒など特定名称酒を中心に造りたい」と、
あえて石数を3分の1ほどに減らしたからだと聞きました。

増井さん自身、最後の志太杜氏と言われた大塚正市さんから酒造りを学びながら、若い
蔵人たちと一緒に汗を流していました。最盛期に800人近くいたという志太杜氏が消滅する
ことに強い危機感を覚え、自ら志太流酒造りの継承者の道を選んだ増井さん。その後、
志太杜氏組合にも加入し、実質的に最後の志太杜氏と呼ばれる存在でした。造りは志太流、
酵母は静岡酵母、米は焼津産五百万石と、オール静岡への強いこだわりを感じました。

蔵訪問をきっかけに何回 か一緒に酒席を共にしました。本醸造酒を酌み交わしながら
「この酒は吟醸造りをしているんです。それで価格は1升で1000円代。もしかしたら日本で
一番贅沢な本醸造酒かもしれませんね」と苦笑いする増井さんの誠実な表情が今でも忘れ
られません。最近は年1回開かれる静岡県の日本酒の会で顔を合わせる程度でしたが、変わらぬ
人懐っこい笑顔を見せてくれていただけに、突然の訃報にただただ驚くばかりでした。

静岡で開かれた告別式に参列して、さらに驚かされる話を聞きました。増井さんが食道ガンを
告知されたのが1年4カ月前。昨年度の造りの入る直前でした。抗ガン剤治療の副作用のせいで
味覚や嗅覚に異常をきたしながら、文字通り命を削りながら最後まで造り終えたそうです。
残念ながら今年度の造りに入る余力は残っておらず、49歳の若さでこの世を去りました。

蔵を訪ねた頃、まだ赤ん坊だった長男の浩太郎君は10歳に成長していました。小学校の作文で
「将来は酒造りをしたい」と書いたそうです。増井さん自身、大学卒業後に東京でサラリーマン
生活をしていたのが、祖父の急逝をきっかけに蔵に戻った経緯があります。浩太郎君が8代目
蔵元になるまではまだまだ時間がありますが、増井さんが築いた「満寿一」の味を継承して
欲しいと願ってやみません。

当店では、増井さんが心血を注いで造った最後の「満寿一」を手配中です。お客様と一緒に
その命の水を味わいながら、ご冥福をお祈りしたいと思っています。

新年ご来店サービス等のお知らせ

4 1月 2012

新年ご来店の方に「磐城壽」復興酒を1杯サービスいたします!

☆新年は1月5日(木)から営業いたします。ご来店いただいた方に
福島県浪江町の銘酒「磐城壽」の新酒を1杯サービスいたします。
この蔵は津波で根こそぎ流されたうえに原発の避難地区に入ったため、
現地に立ち入りもできないという状況の中、奇跡的に残されていた
酵母を使って山形県の休造蔵で造りを再開し、新酒を生み出しました。
東北の酒蔵の復興のシンボルとして、皆様にも味わっていただき
たいと思います。

押上の日本酒バー 酒庵酔香


1月のお休みのお知らせ

☆1月の店休日は、9日(月)、10日(火)、17日(火)、
23日(月)、24日(火)、31日(火)となります。


1月から最初に「お通し6点盛り」をお出しします

☆新年から料理メニューが少し変わります。開店時からご好評をいただいていた
「おまかせ酒肴3品セット」をより気軽に味わっていただくために、
「お通し6点盛り」に変更し、最わってみてください初に皆様にお出しいたします。

季節の食材を使い、できるだけ手作りのおつまみをお出ししますので、
厳選した日本酒と一緒に味わってみてください。


今年1年のご愛顧を感謝いたします

30 12月 2011

2011年の営業も無事終了し、穏やかな天気の下で大掃除やお正月の準備を進めています。
わずか8席の小さい店ながら、1年間にのべ数千人のお客様を迎えたことになります。
開店から1年半を経て少しは自分たちの思うような店に近づいてきたような気はしますが、
まだまだ至らない点も多かったと反省しています。我慢強く心優しき皆様のご宥恕に
感謝いたします。

今年は何と言っても3月の大震災の衝撃が大きく、しばらくは先が見えない不安を
抱えながらの営業でした。自分の店は無事でしたが、東日本の酒蔵の被害状況が
伝わってくる度に、想像を超えた被害の大きさに無力感にも似た思いを強くした
ものです。その後、多くの蔵が甚大な被害を乗り越えて酒造りを再開し、夢と希望に
満ちた新酒を送り届けてくれています。

その味は期待以上です。何より、酒蔵はこの新酒に震災からの真の復興がかかって
いることを思えば感無量です。もちろん東北以外の酒蔵の新酒も素晴しい出来です。
当店の大型冷蔵庫の中は新年からの登場を待つ新酒で溢れています。2012年も
ご来店いただき、精華を競う日本酒たちを是非味わってみてください。

2012年の5月22日にはいよいよ東京スカイツリーが開業します。その前日の21日は
「酒庵酔香」が開店2周年を迎えます。静かな下町一帯がどう変わっていくかは
想像できませんが、これを機に当店まで足を運ばれ、日本酒の魅力に目覚める
人たちが1人でも増えることを願っています。

「日本酒の魅力」と言えば、最近は韓国や中国のメディアから取材の申し出を
受けるようになりました。アジア各国で日本酒が飲まれるようになっていることを
象徴する動きなのでしょう。妻とはスカイツリー観光がきっかけで外国人の来店も
増えるのかなあ、などと話しています。日本酒業界全体で見れば、年々縮小する
国内市場をカバーするうえでも海外市場の拡大は歓迎されるはずです。

とはいえ、まずは日本人に日本酒を飲んでもらいたいと思っています。そのためにも
日本酒の品揃えや料理、提供の仕方、サービス、イベントなどを通じて日本酒の
魅力をもっと高めるべく、日々改善努力していく所存です。一向に上向かない景気も
含め混乱が続くご時世だからこそ、地に足を付けて一歩一歩進んでいきたい。
皆様と新年に再会できることを楽しみにしております。

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